幻の美濃田橋
今日は「幻の橋」のお話です。美濃田の渕に立つ、巨大なコンクリート塔の存在をご存じですか?県立箸蔵自然公園にも指定されている名勝地「美濃田の渕」の真ん中に、そのコンクリート塔はひときわ異彩を放ってそびえています。
なぜこんな所にこんなものが・・・というのが率直な感想だと思いますが、実はこれ、完成をみず放置されてしまった橋脚の跡なんです。吉野川オアシスに設置された記念碑には、事の子細がこう刻まれています。
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◆橋脚は語る「美濃田橋」への想い◆
奇岩が水面に浮かび、桜や岩つつじの花が咲き誇り、両岸の木々の緑が水面に映え、県教育委員会より名勝天然記念物に指定されている絶景の美濃田の渕。その真ん中に水面を汚すかのように、古びたコンクリートの塊と、その上に錆びた鉄骨が立っている。今はこの構造物の由来を知る人も少ないであろう。
昭和20年代までは、吉野川を渡る交通手段は渡し船が主役であった。美濃田の渕の下流にも渡し場があったが、渡し船は時間がかかり、大きな荷物は載せることができず、危険も伴い、洪水の時には運行がたびたび中止になった。このような不便を除くため、吉野川に橋を架けることは住民の切なる願いであった。
終戦後、旧足代村末広の森金次郎氏は、渡し船の不便をなくすため美濃田の渕に散在する岩石に橋脚を建て、当時の足代村小山と加茂町西町を結ぶ、吊り橋の人道橋架橋を思い立つ。そして、同氏が発起人となり美濃田橋建設委員会が結成され、会長に森田宣光氏が、工事委員長には森金次郎氏が就任した。昭和29年に起工式を行い、三名村下名(現在の三好市山城町)の都築建設へ工事を発注し、同年秋より工事を開始した。一番利益を受ける美濃田・小山部落は協力委員会を結成し、完成した橋の姿を頭に描き、早期完成のため、1ヶ月に近い労働奉仕を行い工事が行われた。
しかし、中心になって工事を推進してきた森金次郎氏が、昭和33年2月、事業の完成を念じながら急逝。また、村からの補助金や寄付も思うにまかせず、資金が不足し、工事は中止のやむなきに至った。後に残ったものは、錆びた鉄骨を上に乗せ、吉野川中央の獅子舞岩に立つ橋脚と北岸の橋台。そして多額の負債であった。現在北岸の橋台には展望台が建てられている。
当時を知る人は美濃田の渕には不似合いの、古びた橋脚を見るたびに、当時の橋に対する切なる願いと希望、そして労働奉仕の苦労、工事中断のやるせない無念を思い出すのである。
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北側の橋台から橋脚を望む
とまぁ、概要は上記のとおりですが、徳島県の土木史の歩みは「吉野川との格闘の歴史」でもあったわけです。立派な橋や堤防ができ、安心して生活が営めるようになったのも、つい最近のこと。吉野川が氾濫するたびに、多くの財産と人命が失われてきました。時折こういう話題にふれるに際し、先人への敬意と、現在の私たちへの戒めをひしひしと感じますね。
せっかくなので、当時の完成予想図を元に「幻の美濃田橋」をCGで作ってみました。設計図がないのであくまで想像図ですが、3主塔2経間の軽量吊橋の構造。歩行者橋なので、軽めのすっきりした形状ですね。当時の人たちはこの橋の完成を夢にを思い描ていたんでしょうね。幻となってしまいましたが、もし美濃田の渕にこの橋が架かっていたら、どんな風景になっていたでしょうか。


